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「……… ――― 」

 ゆっくりと、目を開けた。

ふわぁ

 優しい風が、少女の頬を撫でる。

「ここは…」

 何もない辺りを見回した。

 覚えがある。

 現実世界ではない、不思議な感覚。

 おそらくは、実体のないものの世界へ迷い込んだのだろう。

 いや、招かれたのかもしれない。

「…月華か? どうした?」

 歌うような美声が、場の空気を揺らした。

 答える声はなく。

 ただ、柔らかい風が吹いているだけ。

と。

 少女は眉を寄せた。

「…白い… 風…?」

 風に色などない。

 だが確かに、少女を包み込むように吹く風は白味を帯びている。

 ただならぬ様子に、体に緊張が走った。

 広がる闇のずっと奥に… 何かいる。

 人間でも死神でも虚でもない、何かが。

「何者だ?」

 じっと目を細める。

 恐怖よりも、不気味さを感じさせる何か。

 こんな感覚は初めてだ。

パリパリ…

「!」

 殺気を感じて飛びのくより先に。

ドウ

 巨大な霊圧の塊が、少女をめがけて飛んで来た。

バチィッ

 霊圧を解放させて、それを受ける。

バリッ バリバリ… バンッ

 散った。

 同時に、左腕を生温かい物が伝った。

 避け切れなかったのだろう。

 細い腕に、鮮やかな色が映えている。

カツ

 足音のような物音に、視線を投げた。

「………」

 黒曜石の瞳に、見たこともない生物を捉えた。

 体は鹿のようだが、牛の尾と馬の蹄を持ち。

 額の中心には立派な角が生えていて、その瞳は燃えるように紅い。

ザァ

 白い風が、少女の頬を撫でる。

 次の瞬間。

ドウ

「!!」









っ!!」

 大声で怒鳴られて、は我に返った。

「あ…」

 目をぱちくりさせて、自分が何をしていたのか思い出した。

 机の上に、書類が並んでいる。

 そう、業務の途中なのだ。

「何回呼んだと思ってんだよ。 大丈夫か? 無理しねえで、少し休んだらどうだ?」

 呆れ顔でそう言うのは日番谷である。

「いや… 大丈夫だ…」

 は小さく頭を振った。

 その動きに合わせて、艶やかな髪が揺れる。

「…どうした?」

 いつもと様子が違う事に気付いたのだろう。

 日番谷が心配そうに声をかけた。

「……… ――― 」

 何か言おうと口を開くが、結局言葉は出て来ずに、はそのままゆっくりと息を吐き出した。

… 何が………」

 日番谷の声は。

ヒラ…

 かすかな気配に遮られた。

 黒いアゲハ蝶。

 地獄蝶である。

「…山本が呼んでいるらしいな。 ちょっと行って来るぞ、日番谷。 書類はそのままで置いておけ。」

 は席を立つとそのまま執務室の外へ姿を消した。

「…呼ばれたのはだけか…」

 何か面倒が起こったか。

 もしくは、敵方の情報が入ったか。

「はぁ…」

 日番谷は小さく溜息を吐いた。

 そんな事を考えるより、目の前の書類の山を片付けるのが先決である。

 隊長格の反乱と、それが残した傷跡。

 席官以上の死神たちは、それぞれの業務に追われていた。

 だから、日番谷も気付けずにいたのだ。

 の席、机の下に散った紅い染みに。


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