9


 薬物特有の、鼻に付く匂いが充満している。

 日の光は届かない、薄暗い場所。

 瀞霊廷内の者ならば、誰も好んで近寄る事はしないだろう。

 涅の実験室。

 を連れて帰った涅は、一人でぶつぶつ何かを呟きながら、薬を調合している。

 実験室の隅には、十二番隊副隊長・涅ネムが何も言わずに佇んでいた。

 は実験台の上で両手足を拘束されたまま、気を失っている。

 涅が、じっとを見た。

「ん… サンプルには申し分ない。」

 美しく若い少女。

 一体どんな悲鳴を上げて、自分を愉しませてくれるのだろう。

 ふと。

 腰に刺さったままの斬魄刀。

 布や鎖が幾重にも巻かれており、抜刀出来ないだろうとそのままにしてあるが。

 こう見た時に、やぱり邪魔である。

 気を失ったままのへ、手を伸ばす。

 涅の指先が、腰の斬魄刀に触れる直前。

「!!!」

「マユリ様!」

 ネムが叫んだ。

 涅の体は、見えない何かによって弾かれて、壁にたたき付けられた。

 駆け寄ろうとしたネムの頬を、風が撫でる。

「風? そんな…」

 驚くのも無理はない。

 実験室に窓はなく、今は密封された状態なのだ。

 風が吹くはずはない。

「何だ、今のは…?」

 背を打ったのか、涅が少し顔をしかめて苦々しく毒づく。

「!?」

 目を見張った。

 強力な麻酔を使ったのだ。

 たとえ手や足を切り落としても、目覚めない程強力な麻酔を。

 両手足を拘束していた物は、霊圧を封じる特殊な拘束具。

 たとえが目覚めたとしても、体を動かせる訳はないのだ。

 それなのに。

 は、自分が寝かされていた実験台の上に佇んでいた。

 風はから流れて来る。

「貴様…!」

 涅がを睨んだ。

「貴様一体何者………!!」

「…輝け、月華(げっか)。」

 言葉を完全に発するより先に、が切りかかった。

 いつの間にか、少女の手の内に握られていた斬魄刀。

 涅は、間一髪でそれを交わした。

 慌てて体勢を立て直す。

 避け切れなかったのだろう、その頬を一筋の血が伝った。

 が涅を睨み据える。

「…私を怒らせたいのか? 死ぬぞ、貴様。」

 が話す度に、ビシビシ霊圧が飛んで来る。

「くっ… くっくっくっ………はーっはっはっは!!」

 涅は笑った。

「素晴らしい、これほどまでとは! 防人一族! 実に興味深いよ!!」

「黙れ、下衆(げす)。」

 が腰の斬魄刀をぎゅっと握った。

「コレはお前如きが触れてもいい物ではないぞ。 己の非礼、その命で償え。」

 静かに構える。

 さすがにの態度に腹を立てたのだろう、涅が声を上げる。

「なめるな小娘! 私の恐ろしさ、その身に刻んで…!!」

ザン。

 の斬撃。

 涅は寸での所で交わした。

「ほぅ、交わすか。 弱くはないな。 だが…」

 の霊圧が上がった。

 その霊圧に当てられて、涅はその場から動けない。

「冥土の土産だ。 その眼に刻め。 これが私の斬魄刀…」

 が斬魄刀をかざした。

「卍解、星彩(せいさい)月…!」

「やめろ。」

 斬魄刀を薙ぎ払おうとして、その手首を捕まれた。

 その声に、よく知る霊圧に、は一瞬にして怒りを忘れる。

 ゆっくり、振り返った。

「…白、哉………」

 六番隊長・朽木白哉。

 の手から、斬魄刀を取り上げる。

「月華の霊圧を感じた。 まさかとは思ったが、来て正解だったようだ。」

 白哉の手に収まった斬魄刀は、一瞬にして花びらに姿を変え、燃え尽きて、灰になった。

…」

 白哉がすっと、の頬に触れる。

 ビクッと、少女が震えたのがわかった。

「…何故、私を止めた?」

 気のせいだろうか、その声は震えていた。

「お前を失いたくないからだ。」

 白哉の声。

 は強く唇を噛んだ。

「白哉、お前は…!」

 弾けたように、白哉を見上げる。

「お前は…ッ……!」

 自分を見据える、白哉の瞳。

 涙を堪える事が出来なかった。

「…お前は一度、私を捨てたではないか………」

 黒曜石の瞳から、大粒の涙がポロポロ零れる。

 腰の斬魄刀に触れられそうになり、意識を取り戻しただが。

 涅の打ち込んだ麻酔は強力なもので、無理に動かしている体が、言う事を利かない。

 がくっと、その場に崩れそうになる少女の体を支える。

、私の許(もと)へ来い。」

 立っているのも辛そうなを見かねて、白哉はその体を抱き上げようとした。

「っ、触るな!」

 は白哉の腕を振り払い、一瞬にしてその場から姿を消した。

 瞬歩だ。

 白哉はの霊圧を追ったが、捕らえる事は出来なかった。

 少女の腕を掴んでいた自分の手を、何も言わずしばらく眺めていた。

「あ、あの…」

 ネムの声に、視線を投げる。

「…此度は止めたが、今後に関わるな。 命を落とす事になる。」

 涅を見据える白哉の瞳は冷たかった。

「何だと、朽木…!!」

 涅が何か言いかけたが、瞬歩を使ったのだろうか。

 白哉の姿は、もうそこにはなかった。


back