ただいま。



「宗一郎〜。 いつまで寝ているつもり? いい加減起きて来なさい!」

 何度目かわからない母の声に、神はベッドの中で、寝返りを打った。

 所属している、強豪と全国でも名高い、海南大付属高校バスケ部は、珍しく休みである。

 午後には、後輩の自主練に付き合う約束をしている。

 朝、ゆっくり出来るのは久しぶりなのだ。

 少しの朝寝坊くらい、見逃してくれてもいいではないか。

 いつも遅くまで練習していて、疲れているのだから。

「宗一郎〜! 早くご飯食べなさい、片付かないでしょう〜!」

「わかった、起きるよ。」

 大声で怒鳴り散らす母に、神は一つ欠伸をしてベッドから体を起こした。

 朝、いつもの習慣で、起きて一番に窓を開ける。

『おはよ、宗ちゃん。』

 今朝見た夢のせいだろうか、懐かしい声を思い出してしまった。

 階段を下りて、リビングに入るなりソファーに腰を下ろす。

「コーヒー?」

 聞き飽きた声に、神は頷いた。

「貴女もね。」

 母の声に首を傾げる。

(誰か来てる?)

 疲れた息子を休ませてやろうと言う気はないのだろうか。

「ちょっと、宗一郎! アンタ、パジャマじゃない! お客さん来てるんだから、早く着替えて来なさい!」

 寝起きで母の声が頭に響く。

「ちょっと、喉が渇いちゃって…」

 インスタントのコーヒーに一口、口に付ける。

「まったく、この子は… ごめんね。」

 苦笑う母に、細く笑う声。

「いいえ。 機嫌が悪いみたいですね。」

 声色からすると、客人は若い女の人らしい。

 そりゃ、機嫌も悪いさ。

 寝ていた所を起こされたのだから。

 おまけに夢見が悪かった。

 2年と半年前に分かれたきりの幼なじみ。

 訳あって、アメリカに移って早3年目。

 少し前までは、パソコンメールで定期的に連絡を取り合っていたが、最近は音沙汰ない。

 そんな状況で見た夢だから、気分が悪いのかも知れない。

 幼なじみの少女、密かに想いを寄せていた少女。

 彼女は今も、あの頃のままの笑顔でいるのだろうか。

「おはよ、宗ちゃん。」

 毎朝、そう言って笑ってくれた。

…………。 ―――

 神は驚いて振り向いた。

「なっ…!?」

 驚きのあまり、言葉が出ない。

 母が要れたコーヒーのカップに口を付けながら、一人の少女が微笑んでいる。

 ふわふわした柔らかそうな髪。

 透き通るように白い肌、よく映えた緑色の左目。

「えへへv びっくりした?」

 耳に届く声。

 どれを取っても、それは夢で見た少女その物で。

「…?」

 懐かしい愛称を、久しぶりに口にしてみる。

「ごめんね、ちゃん。 帰ってきたばかりなのに、この子ったらこんなんで。」

 母が、困ったもんだと大袈裟に溜息を吐いた。

「イイエ。」

 は細く笑った。

 まっすぐに神を見つめる。

 神は石になったように、固まっていた。

 夢で見た少女が、現実で目の前でコーヒーを飲んでいる。

「寝癖、付いてるよ。」

 ふいに微笑まれて、神は立ち上がった。

「着替えて来るよ。」

 とりあえず状況の整理がしたいので、神は逃げるようにリビングを出て行った。



 いつものポーカーフェイスが崩れていなかったか、心配だった。

 開けた窓から、顔を出す。

 まだ生暖かい風に髪を揺らしながら、となりの部屋を覗いて見た。

 何一つ変わりない。

 自分の部屋に戻っていないのだろうか。

 まぁ、それも彼女らしい。

 神は一つ、溜息を吐いた。

 とりあえず、この部屋に来た目的を達成するため、来ていた Tシャツを脱いでベッドの上に放り投げた。

 適当に着る物を探しながら、ふと手が止まる。

幼なじみの、。―――

 2年半ぶりの再開だ。

 何か話したい事はたくさんあるのに、上手く言葉が出なかった。

 着替えを口実に逃げたが、戻ってどうしよう。

(…キレイになってたな。)

 ふぅと、溜息が漏れた。

ガチャ。―――

 突然のドアが開く音に、神はゆっくりと振り返った。

「へ〜、キレイに片付いてるね。」

 驚いている神に構わず、は部屋に入って来た。

「あ、何、彼女かな〜?」

 机に飾ってあった写真立てに手を伸ばすに、神は少し慌てた。

 海南バスケ部の集合写真。

 に嫌な思いをさせるかも知れない。

「何だ、バスケ部か。 期待したのにな。 あ、牧さんだv」

 神の心配とは他所に、は楽しそうに写真を見ている。

 ホッと、神は胸を撫で下ろした。

 同時に、状況を思い出し、苦笑う。

…オレ着替え中なんだけど。」

「いいよ、別に照れる間柄じゃないもん。 あ、イチゴちゃんパンツ。(笑)」

 そりゃ、小さい時、一緒に寝たり、お風呂に入ったりした事もあったが、それはもう昔の事。

 神はと一緒にいるだけで落ち着きのない気分になるのに、は全然平気なようだ。

(それもそれで淋しいかな…)

 Tシャツを被り、ズボンを履く。

 ふいに、が口を利いた。

「宗ちゃん、背が伸びたね。」

 首が痛くなるのではと思うほど、は神を見上げた。

だって、大きくなったんじゃない?」

 は神の前に張り付いて、えへへと笑った。

「なんか、パパみたいv」

 と、神を抱き締める。

 神は優しくの頭を撫でた。

「アメリカには戻るの?」

 神の問いには首を横に振った。

 その答えに安心したと同時に、嬉しくなって神はを優しく抱き締めた。

「学校は、…翔陽?」

 今度も、は首を横に振る。

「…翔陽だと、電車に乗らないといけないから。 一番近い、湘北。」

 淋しいのを我慢している声。

 神は、その声で悟った。

 もう、バスケは出来ないんだと。

「海南に来る気はない? 毎日送るし、勉強だって見てあげるよ。」

 は少し体を離して神を見つめた。

「ありがと。 でも、バスケを…思い出しちゃうから。」

 神はにこりと笑って、の頭を撫でた。

 階下から、母が呼んでいる声が聞こえる。

。 行こう。」

 華奢な肩を抱いて部屋を出ようとすると、が突然足を止めた。

「どうかした?」

 神は不思議そうに、を見つめた。

「あのね、まだちゃんと言ってなかったから…」

 は少し照れたように、小さく舌を出して神を見上げた。

「ただいま。」


   「宗ちゃん、私…帰って来るから。

    一番最初に、宗ちゃんにただいまを言いに来るから。」


 さよならをする日に、がそう言っていた事を思い出す。

 その場の軽い約束を忘れずに覚えていたが、愛しくてならない。

「おかえり。」

 不意打ちで額にキスを落とすと、はすぐに真っ赤になった。

(俺ばかりがドキドキするのも癪だからな。)

 そんなを見て、神は楽しそうにそんな事を考えていた。

「不意打ちは卑怯だよ〜。」

 上目使いで自分を見上げるが、可愛くてしょうがない。

「ごめん。 あんまり可愛かったから、つい。」

 口調から察すると、たいして悪びれていない。

「もう!」

 ぷぅっと頬を膨らませるが、あの頃と重なる。

「あはは。 今度、町を案内するから。 それで許して、ね?」

 昔から、をあやすのは得意だった。

「ホント〜? 約束だよ。」

 は花のように笑った。

 夢ではなく、現実で再びその笑顔に出会えて安心した。

 子供のように純粋で素直で、その笑顔を独り占めしたいと思ってしまう。

 あの頃のは幼すぎたから、伝えられなかった。

 でも、今ならそう言った気持ちを理解出来るかも知れない。

好きだよ、。―――

今度はもう放さないから、覚悟してね。



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