ごくっ。

 息を飲む。

 ゆっくり指を近付けるが、チャイムを押す寸前でやっぱり引っ込めてしまう。

「あ〜、アホや、オレ。」

 日曜日。

 練習は休みだが、午後3時から藤真の特別メニューが待っている。

 まだ、正午。

 今日も暑い。

 暑いのに。

 樋口は、10分程前から、同じ事を繰り返していた。

 場所は、の家の前。

 ここまでやって来たはいいが。

「…何がしたいんやろ。」

 特別用がある訳じゃない。

 でも、聞きたい事があるのも嘘じゃない。

 でも、だからって。

「…なんでこんなに緊張しとるんや。」

と。

ガチャ。

「さっきから何よ? 独り言が気になるんだけど。」

 ドアが開いた。

 出て来たのは、一人の女性。

なら宗くんと買い物に行ってるけど、上がって待つ?」

 の母親にしては、若い。

「は、はじめまして。 樋口炎…です。 ちゃんのクラスメイト…です。」

 たどたどしい言葉遣い。

 小さく吹き出す。

「敬語、無理して使わなくていいわよ。 上がりなさい。」

 促されるまま、家の中に入る。

 やっぱり少し、緊張した。





から話は聞いてるわ。 同じバスケ部なのよね、樋口くん。」

「そや。」

 女性は、那美(ナミ)。

 の叔母だそうだ。

ったら…」

 那美は小さく笑いながら続けた。

「アイスを食べに行ったとか、パフェが美味しかったとか… 今度チェリーパイを食べに行くとか。 そう言う話ばっかりなのよ。 でもね。」

 じっと樋口を見る。

「必ず、君の名前が出るのよ。 あと女の子、竜ちゃんって言ってたわ。 ボスの話もよく聞くけど。」

 冷たいお茶を飲んで、樋口がやっと口を利いた。

「…聞いてもええんか、わからんのやけど。」

 那美を見つめる。

ちゃん… 何でなん?」

 樋口の問い。

 何でと言われても、何の事だかわからない。

 しかし。

「………よく見てるのね。」

 那美が感心したように呟いた。

 樋口は続ける。

「何で………」

 それ以上は何と言えばいいのか、言葉が見つからない。

 "闇"がある。

 とでも言うべきだろうか。

 常に明るく振舞い、常に笑顔で、常に元気で。

 気付いたのはいつからだったか。

 最初にその兆しが見えたのは、"家族"と言う言葉を出した時。

 の表情が、一瞬曇った。

 クラスで見ていても、部活で見ていても、たまに胸が詰まりそうになる。

 は、絶対に怒らない。

 は、嫌いな物がない。

 は、嫌な顔をしない。

 は、弱音を吐かない。 どんなに疲れても。

 は、いつも同じように笑っている。

 別に気にする程でもないかも知れないが、どこか不自然だ。

 那美は小さく息を吐いた。

「…4ヶ月くらいね。 誰も気付かないと思ってたのに。」

 じっと樋口を見据える。

「どう言うのが適当なのか、私も分からないけど…」

 瞳を伏せる。

 樋口がゆっくり口を利く。

「…両親は、何で一緒に住んでへんの?」

「私も仕事が忙しいから、家にいる時間はそんなにないけど… 一緒に住むようになって、もう7年ね。」

 樋口の問いには、答えない。

「私はをすごく大事に思ってるわ。 だから、あの子が傷付くのは嫌なの。」

 真っ直ぐ、樋口の瞳を見据えた。

「君がの事を少しでも特別に思ってくれるのは、とても嬉しいわ。 だけど…」

 那美が首を振る。

「私は、何も話す気はないわ。 それに…」

 樋口を見て、言う。

「君も、何か秘密を抱えている。 尚更話す気ははいわ。」

 樋口は何も言わなかった。

 那美が息を吐いた。

 席を立つ。

「もうそろそろ帰って来ると思うわ。 お昼、ご一緒にどうかしら?」

「ほな、頂くわ。」

 キッチンに入って、首を振る。

 の事で、こうしてクラスメイトの子が訊ねてくるなんて思わなかった。

 これまでそうして来たように、と言う少女を完璧に演じるだろうと思っていた。

 仕方がない。

 それでもいいと、どこか諦めていた。

しかし。

 この少年が気付いたと言う事は、ボロが出ていると言う事。

 自分が7年かけても崩せなかったモノ。

 出会ってたった4ヶ月のこの少年に対して、少し嫉妬している自分がいた。



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