名前



「よし! 今日はこれまで!」

 藤真の声が大きく響いた。

「お疲れさん!」

「ありがとうございました!」

 倒れこむ二人。

 相変わらず、藤真の練習は容赦ない。

「姫〜、シュートのバリエーションが増えたな〜。 ごっつしんどいわ。」

「でも、フェイクが上手くなったよね。」

 二人の会話に、藤真が反応した。

「前から聞きたかったんだけど、姫って何だ?」

 首を傾げて、樋口を見る。

「オレの一番大事な女の子やから、姫や。 ひ・め。」

 上半身を起こして、藤真を見上げた。

(一番大事な女の子… 言ってて恥かしくないのか?)

 聞いた藤真の方が、恥かしい。

 それにしても。

 藤真は樋口から目を反らした。

 気のせいだろうか、睨まれている気がする。

 ビシビシ感じる敵意むき出しの視線。

 背中に冷や汗すら感じた。

 今日の樋口は、やけに機嫌が悪いらしい。

「クラスで何かあったのか?」

 に聞いても、は首を振るだけだ。

「あ、でも、嫌な夢を見たって。 朝から元気なかったですよ。」

 確かに夢身が悪くて機嫌が悪い事も、あるだろう。

 しかし。

(やっぱり、何か睨まれてないか…?)

 背中に刺さる視線が痛い。

「モップ掛けして早く帰ろう、炎くん!」

 差し伸べられた小さな手を取って、樋口が立ち上がった。

「半分な! どっちが早いか、競争や!」

「負けたら?」

「鞄の中に入ってる、お菓子没収ー!」

「やー、絶対負けない!」

 ぱたぱたと、モップを取りに体育館倉庫へ駆け足で向う。

(炎くん、か…)

 何だろう。

 この数日、が樋口の事を、炎くんと、名前で呼ぶようになった。

 台風の一件から、大分日は過ぎている。

 あれ以来、藤真はどこか落ち着かない。

 でもは全然普通通りで、そわそわしている自分が変だと思う。

 それに。

 樋口と一緒にいる時のの楽しそうな様子を見ていると、心が温かくなるような、安心感にも似た気持ちを感じている自分がいる。

(何だって言うんだ…)

 自分の気持ちがわからないなんて、始めてだった。

 体育館に二人を残し、先に更衣室へ向う。

と。

 女子更衣室。

 その前を通り過ぎた時、ふいに中から話し声が聞こえたので足を止めた。

 練習が終わって、大分時間は経っている。

 誰が残っているのだろう。

(翠と、真琴か…?)

 一体何をしているんだ?

 女子更衣室をノックしようとして、止める。

 中から微かに聞こえる話し声。

 自分の名前が、聞こえた気がした。

(何だ?)

 薄いドア一つ隔てたそこに藤真がいる事に気付いていない二人は、そのまま会話を続けている。

「健司は… 本当にバスケが好きだから… 優しくて思いやりもあるし。 だから、どんなに厳しくても、一生懸命な健司に答えようとして、ちゃんも樋口君も、頑張っているんだと思うの。」

 真琴の声。

「…マコちゃんのバカ。 取られてもいいの?」

 ムスっと、いじけたような翠の声。

「そうね。」

 真琴は、少し困ったように小さく笑った。

 その反応が納得できなかったのだろう。

 翠が、少し声を荒げた。

「マコちゃんのバカ! そんなんだったら、健ちゃん取られちゃうよ。」

 泣き出しそうな声で、翠が続ける。

「健ちゃんが今、を何て呼んでるか知ってるでしょ? "ちゃん"だよ? 健ちゃん、今まで女の子の事、名前で呼んだ事なかったじゃん。」

 確かにそうかも知れない。

 幼稚園から一緒だった、幼なじみの真琴と翠以外は、どんなに親しくなっても、女の子を名前で呼んだ事はなかった。

「マコちゃん、健ちゃんが好きなんでしょ? 何で、告白しないの?」

 藤真は、耳を疑った。

 真琴が答える。

「…だって、いまさらじゃない。 小さい頃からずっと一緒で… 異性として意識して来なかったのに。」

 真琴は続ける。

「それに、私が健司の事を好きだと言ったら、きっと、健司は困るわ。」

 真琴の言葉を全て聞くより先に、藤真は男子更衣室に飛び込んだ。

 ドアにもたれる様に、その場に座り込む。

 聞いてはいけない事だった気がする。

 まさか、真琴が…。

(俺は………)

 くしゃっと、前髪をかき上げた。

 真琴も翠も、仲の良い幼なじみ。

 それ以上も以下もない。

(…どうしろって言うんだ。)

 ふいに、の笑顔が、瞼をよぎった。



back